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虚構の穴

 「エアポケット」という言葉がある。飛行機が乱気流に巻き込まれたとき、突然穴に落ちたように急降下してしまう現象のことである。その空域には空気がなくて、飛行機が空気という支えを失い、降下してしまうものだと信じられてきた。その見えない穴がエアポケットと呼ばれた。現在ではメカニズムが解明され、下降気流によって翼の空気に対する角度が減少し、揚力が低下するために起こる現象とされている。
エアポケットは「空気の穴」という意味だ。「空気」は、目には見えない透明な存在。「穴」は、存在がないことを示す単語。さらには、その「穴」自体が空想であり、実際には空気の穴は存在していなかったという事実。エアポケットという現象において知覚されたことは、飛行機が急降下した「結果」のみであり、結果からの「想像」によって「空気の穴」が生まれたのである。

 飛行機が急降下する現象から生まれた『空には空気の穴がある』という仮説。それを、現代科学が否定できた理由は、飛行機が急降下する現象が再現可能だったからである。つまり、乱気流の中を飛行機が飛べば、再び同じような現象に出くわすことになる。急降下したときの情報を集め、現象の原因を突き止める。そして「空気の穴」説は我々の前から姿を消した。
  もし仮に、急降下現象がたったの一回しか起こらないような特異な現象であれば、真相にたどり着くことはできず、人々は空気の穴の存在を信じ続けただろう。

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 写真を見る体験とは、フレームの内側で起こった出来事の「結果」を、画像として見るということである。フレームの外側は、写真上には一切存在していないので、当然見ることができない。写真は、カメラのシャッターボタンを押せば、目の前の風景を記録することができる便利な技法である。その反面、写るのは、カメラのファインダーを覗いたときに見えるフレーミングされた領域のみで、シャッターを押した後のわずかな時間の状況しか残せないという不自由さもある。空間的にも時間的にも、極めて限定的な範囲を切り取るのが写真。写すところは忠実に写し、そうでない場所は全くの暗黒である。

 写真は、出来上がった写真という「結果」から、それがかつてどこかであったことだと、人は想像を膨らませる。飛行機の急降下現象は、急降下という「結果」からエアポケットという穴が想像された。似た部分がある両者だが、決定的な違いは再現性の有無である。急降下現象には再現性があった。急降下の仕方は毎回違うのだろうが、乱気流という原因と、急降下という結果があり、それらの関係は一貫していた。同じ体験を繰り返し、調査、検証するという科学的なアプローチにより、問題が解明されるに至った。では、同様のことを、写真で行うことは可能だろうか。
  例えば、微笑んでいる人物が写った写真があったとしよう。写っているその人は、嬉しいことがあって微笑んでいるのかもしれないし、憂いを帯びた表情かもしれない。あるいは、単に写真に写るときの決めの表情であって、特に感情はない可能性もある。写真に写されたその表情は過去のものであり、正しい回答は得ることができない。写っている本人に聞くという手もあるが、本人が亡くなっている場合もあるし、仮に聞いたとしても、その言葉が事実を表しているかを証明する術がない。

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 撮影という行為は常に一度きりであり、その状況に戻ることは決してできない。人々は、写真という断片を見て、想像するしかない。そして、再び撮影したときの状況に戻ることができない以上、飛行機の急降下現象のような明確な答えにたどり着くことはない。人は、見えない、という状態をとても嫌う。隠されているものは、つい見たくなるのが人間の性だ。それをあざ笑うように、限定的な空間と時間しか写さない写真の不完全さ。飛行機が急降下した「結果」から空気の穴を想像したように、人は写真という「結果」からさまざまな情報を読み取り、想像しようとする。だが、流れ去った過去に戻ることができない以上、謎は永遠に謎のまま。写真は、撮影された分だけエアポケットを生み出し続けるのである。