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写真の時間性

 写真には、シャッター速度(シャッタースピード)というものがある。光を遮断する役割を持つシャッターを開き、デジタルカメラの場合は画像センサに、フィルムカメラの場合はフィルムに光を当てる時間のことである。シャッター速度が1秒なら、1秒間光を取り込み、カメラはその光の信号を記録する。
 写真を撮影するには、一定時間光を取り込む必要がある。0秒の写真はありえない。とはいえ、厳密に言うと、シャッターを切っていない新品のフィルムを現像することは可能である。その場合、当然何も写っていない真っ黒な写真が出来上がる。これは、露光時間が0秒なので、0秒写真と言えるが、それは写真現像の手法に則っただけの単なる化学変化であり、写真と呼べるかどうかは疑わしい。本書では、光の信号を記録し、物質を媒体にする事で可視化する一連の手続きを経たものを「写真」と定義し、上述の「0秒写真」は写真から除外させていただく。

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 曲の演奏の中で、ある瞬間の音を取り出したとしよう。それが1秒の長さであれば、どんな音なのかは聞き取ることができる。0.1秒でも、単純な音であれば、音階の把握はできるだろう。では、その10分の1である0.01秒、さらに0.001秒と、どんどん短くしていったらどうだろうか。音の周波数の関係で音階は失われるだろうが、完全に音が消えることはない。割り算でどんなに時間を短くしても、音はなくならない。逆に、時間を0にした場合、そこに一切の音は存在することができない。音は、空気の振動が生み出すもので、0秒では空気が振動することができないからだ。

 一般的な、西洋の五線譜における音符という記号は、五線譜上の位置で音階を表し、使用する音符の種類によって時間を表すことができる。一番長い全音符は、1小節と同じ長さと定義される。1小節を [1/2] の長さにしたものを2分音符、[1/4] の長さにしたものを4分音符と呼ぶ。8分音符、16分音符、32分音符と続いていくが、どれだけ進めていっても、0秒の音にはならない。分母は際限なく大きくできるが、その法則では音の長さが完全に0になることはない。逆に、0分音符(そんなものは存在しないが)はどんな音符か考えてみよう。全音符が1小節の [1/1] の長さを表すので、0分音符は [1/0] である。数学では分母が0というのは計算できない。これは1小節を0分割するという意味なので、どんな長さの音符か想像もできない。
 五線譜のルールは、音符に秒数を設定するのではなく、1小節を何分割するかで音符に時間を設定する仕組みだ。そのルール上、0秒の音が記述できないようになっている(単にリズムを刻みやすくするために、そういうルールになっているだけかもしれないが)。
 音が0秒では存在できないというのは、カメラのシャッター速度が0秒では撮影ができないのと同じだ。写真や音には「ある一定の時間」が必要不可欠なのである。

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 我々が『写真に時間を加えたものとは何か』という問いに対して思い浮かべるのは「動画」だろう(「映画」と言い換えてもいい)。今や、デジタル一眼カメラでも、スマホのカメラでも、動画撮影機能をサポートしている。静止画と異なり、動画は文字通り「動く」。撮影の原理は簡単で、1秒に数十枚の静止画を連続して撮影する。再生するときはパラパラ漫画のように静止画を切り替えていくことにより、動いているように見せている。1秒間に30コマくらいの切り替わりがあれば、ある程度なめらかな動きを再現可能だ。60コマ、120コマと増やしていけば、動きはよりスムーズな動画になる。とはいえ、どれだけコマ数が増えても、結局は静止画の連続である。楽譜に128分音符や256分音符を敷き詰めても、音の点が連続するだけで、線にはならない。動画も同様に、コマ数をいくら増やしても静止画は点に過ぎず、継ぎ目のない線になることはない。動画の中で、時間が流れるように動いて見えるのは、人間の頭の中で起こる錯覚である。

 動画は、編集で自由に組み立てることができる(フィルムの動画は、フィルム自体を切り貼りする。デジタルはアプリで容易に編集できる)。また、コマを流す速度を変えれば早回しができるし、逆に遅くすることもできる。これはコマが点であり、独立しているためにできることだ。動画は、時間軸を持つ存在である。その時間とは、楽譜に並んだ音符を演奏し、それが曲に聞こえるように、静止画を連続して表示することで生まれる錯覚。それが「動画の時間性」である。
 
以上を踏まえて、写真にはシャッター速度がある、ということを思い出してほしい。写真のシャッター速度は、一般的に短いものは数千分の1秒から、長いもので数秒、数分である。シャッター速度、つまり、カメラが光を取り込む時間は、冒頭で述べた通り0秒にはできない。そして、写真として仕上げるためには、いつかは光を取り込む作業を終えなければいけない。写真が記録する時間とは、「点」でもなく、「線」でもない。線として流れ続ける時間から切り出した「幅」なのである。
 写真は一定時間、光の信号を記録する。フィルムやメモリーカードに記録されるのは、その「幅」の間に光を記録してできた画像である。だが、出来上がった写真で、時間の「幅」を体験することはできない。例えば、1秒かけて撮った写真を1秒間眺めても、撮影した時間の経験にはならない。また、1分かけて撮影した写真を、1秒で見ることもできる。よく考えたら不思議な話である。逆に動画は、1分の動画を体験するのには、1分の時間が必要だ。見る側が時間を使うことによって、スクリーンやモニターの中に生まれる、架空の時間。それが「動画の時間性」。写真は、1枚の写真を1秒でサッと見てもいいし、1時間見続けてもいい。どれだけの時間を使おうと自由だ。それは、写真自体が時間を持っていないことを意味する。しかし先程、写真は「幅」の時間を持つと述べたばかりだ。その「幅」はどこにいったのか。
 1秒間のシャッター速度で写真を撮る場合、カメラは1秒間光を取り込み続ける。光が長時間当たった部分が明るく写り、短時間しか当たらなかった部分は暗く写る。カメラは時間の「幅」を、画像の「明るさ」に変換する。「幅」が失われるのは、この変換のタイミングだ。夜空に星が軌跡を描いている写真を見たことがあるだろうか。あの線は、数十分のシャッター速度で撮影した星の動きの痕跡である。暗い空は黒く写り、光を放つ星は、空を移動しながら軌跡を描く。そして、出来上がった写真は1枚の画像の中に時間の「幅」の痕跡を残す。もちろん、それは星の写真に限らない。どんな写真も0秒で撮影できないので、静止した花瓶の写真だろうが、写っているものは「幅」の痕跡と言える。
 写真は、かつて流れ去った時間の「幅」を記録する。撮影時における時間の痕跡が写っているという事実。それこそが、「写真の時間性」なのである。