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直線の話

 僕は街を歩きながら、ふと目を奪われるものがある。それは、複雑な形で入り組んでいたり、それぞれが等間隔で並んでいたりする。通り過ぎたあと、思わず立ち止まって二度見したり、スマホで写真を撮ったりする。それは「直線」である(構造物の直線は表面がデコボコしていて、厳密な直線ではないが、本書で扱う直線はこれくらいのアバウトなものである)。

 街中の直線は、2種類あると認識している。一つは建物の輪郭などの立体物から見えてくるもの。もう一つは、壁や地面に描かれた平面的なものである。前者は、ビルや住宅、電柱など、構造物と空間とが作り出す直線。それを眺めながら歩くと、徐々に他の建物の直線との関係性が変わってくるのが面白い。近くの建物のほうが高速に、遠くの建物はゆっくりと動いて見える。また、見る角度によっても形は変化する。瞬間瞬間で生まれる組み合わせがある。信号待ちで持て余した時間に、お気に入りのポイントを探して、立ち位置を細かく修正するのは、街歩きの醍醐味である(この感覚、線を意識して街の写真を撮ったり、絵を書いたりする人ならわかってもらえるだろうか…)。

 壁にある直線とは、窓や扉、装飾や目地、ポスターなど。地面にある直線は、道路に描かれた白やオレンジの線や、タイル、側溝、その他いろいろ… 。立体物の線のような、立ち位置を変えることでの形の変化はあまり感じられない。その代わり、僕は同じ形のものを集めたり揃えたりすることに楽しさを見出している。

 そんな直線は、街に溢れている。デタラメにカメラのシャッターを切ったとしても、多かれ少なかれ、直線は入ってくる。
 この直線、ほとんどが人工物のみに現れるものであり、自然界ではあまり見ることができない。自然界の僅かな例を挙げると、地平線や水平線が直線に見える(厳密にはカーブしている)。曇り空から太陽が顔を覗かせたときに見える光の筋も直線だ。あるいは、雨粒が作り出す軌跡。あとは、蜘蛛が一本の糸で下がっているときや、猿が木の蔦に掴まっているときなど、紐や糸状のものは直線的になる。いずれも重力だったり、光の特性だったりで、人間以外の動物が単独で直線を作り出すことは滅多にない。

 人間が自由自在に直線を作れるのは、道具の存在が大きい。紙にきれいな直線を引こうと思ったら、定規を使うだろう。フリーハンドで直線を引くのは、なかなか難しいし、精度の面でも定規には劣る。では、その定規はどうやって作るのだろうか。我々が手にする一般的なプラスチック定規は、大きなプラスチックの板から切り出されている。切り出す機械は、当然正確な直線を持っている。では、その切り出し機を作るにはどうしたらいいか…。
 そうやって考えていくと、いつまで経っても大元の直線にはたどり着けず、なんだか『ニワトリが先か?タマゴが先か?』問題になりそうだ。だが、直線の場合はそこまで複雑な問題にはならない。
 昔の大工は、墨つぼという、糸に墨をまぶす道具を使った。糸の両端を引っ張ると、2点間で直線になる。壁や床、柱の木材に、張り詰めた糸をあてがい、パチンと指で弾く。すると、墨が木材に付着し、真っ直ぐな線が引かれることになる。この作業は墨出しと呼ばれる。墨つぼを使わなくなった現代でも、工事の進行に必要な線や寸法を表示することを墨出しと呼んでいる。このように糸を使うことで、きれいな直線を生み出すことは可能である。直線の原点は、糸を使って作られたものかもしれない。

 現代の街や身の回りの持ち物に溢れている直線は、糸なんて使わず、道具や機械を使って作っているだろう。それらは、また別の直線を継承している。街中で直線を眺めながら、この直線のルーツは一体なんだろう、ひょっとしたら、たった一本の糸から生まれた直線かもしれない。そんなことを考えながら、僕は街の直線を眺める。