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写真相対論 – Relativity of photograph(2019)

写真相対論

 我々は普段、何を見ながら街中を歩いているだろうか。自転車や車の往来、信号、すれ違う人、等々。変化するもの、危険なものを見ながら、無意識に目的地へ向かって歩くのが一般的であると思う。わざわざ、「信号が青なら進んでいい、赤は進んではいけない」という信号の役割を再確認しながら歩くことはないだろう。これは、社会のルールで取り決められたことであり、それに従っていれば安全だ(と皆、信じている)。「社会」は、信号のルールのような取り決め(もちろん、交通ルールに限らない)が堆積して作られたシステムだ。社会は人をコントロールし、人はそこから安心を得る。
 社会がもたらす「安心」は、時として人の目を曇らせる。そこが安心・安全だとわかると、「当たり前」という言葉で処理し、それをいちいち見なくなるものだ。動物園の動物は、無防備である。外敵のいない安全な環境に慣らされているし、寝ていても毎日エサにありつける。安全な環境が当たり前なので、野生動物のように周囲に目を光らせることはない。
 その「当たり前」という幻想は、システムそのものを覆い隠す機能もある。システムの内部にいる人間は、自分がシステムに組み込まれていることが当たり前であり、それに何も疑問を抱かない。動物園で生まれ育った動物たちは、自分が動物園という檻の中にいることに、気付く術がないのだ。


 街中で撮影をしているとき、時々ゾッとして鳥肌が立つことがある。何か、異質なものに出会うような感覚。例えるなら、道を尋ねようと声を掛けた人が、振り返ったら「のっぺらぼう」だったようなインパクトである。
 そもそも、なぜ「のっぺらぼう」を怖いと感じるのか。我々は、目や口がないマネキンを見て、怖いとは思わない。それがマネキンであることを理解していて、マネキンに目や口がないことは常識の範囲内だからである。これは、「常識」というシールドの効果だ。人の形を模して作られ、ショーウィンドウなどで衣類をディスプレイするものに対し「マネキン」と記した名札を付けて、「常識」という箱にしまう。すると、人の形をとりながら顔のないものがあっても驚かない。逆に、マネキンが突然踊りだしたら驚くだろう。「常識」を超えるからだ。固定化された概念が破壊される衝撃に、人は恐怖を覚える。

 僕が撮影で出会う違和感は、普通の街景にある。建物があり、街路樹があり、道路があり、車が走ったり止まったり、人がランダムに存在する。モノとモノがデタラメに、ゴチャ混ぜにされた「普通の街」。その尋常ではない景色は、「常識」というフィルターによって処理され、人はなんの違和感も持たずに暮らしている。
 写真には「常識」というフィルターは存在しない。もし、常識に縛られた写真があるのなら、その常識を持ち込んだのは撮影者の方であり、常識の支配下にある撮影者の主観が反映された結果である。逆に、常識から解放された写真を撮ることができれば、「普通の街」を写すことが可能だろう。この場合、いかにして撮影者の主観を排除するかということが一つのハードルになる。僕は、構図や被写体をある型にはめて、同じ形で撮る、という手法を試みた(僕はこれを「定型撮影」と呼んでいる)。


 ありふれた街並みの中、唐突に浮かび上がる円形のマーク。赤と青という強い二色に斜め線。「駐車禁止」を示す道路標識である。駐車禁止のマークは他のマークに比べて、標識を見ただけでは「駐車禁止」という意味を連想しにくい、曖昧さがある。例えば、横断歩道の標識は、子供が二人、ゼブラ・ラインの上を歩いているイメージが描かれている。このマークは一目瞭然であり、横断歩道をイメージさせやすくする配慮がなされた標識である。もしこれが「りんご」のマークだったら、「横断歩道」=「りんご」という人為的な取り決めを覚えなければいけない。横断歩道の標識は、現実的な連想で結ばれており、横断歩道の「象徴」として明確に機能している。これは、横断歩道に限らず、その他の標識を調べてみても、ほとんどが具体的な情報を示している(それが標識の役割なので、当然のことなのだが)。
 駐車禁止の標識は、赤い丸に斜め線が描かれているが、そこから駐車禁止という意味を受け取ることは難しい。斜線は「否定」の意味はあるが、それではペット同伴禁止かもしれないし、歩きスマホ禁止かもしれない。丸に斜め線というマークは、駐車禁止という意味であることを認識していないと成立しない、特異な標識である。
 余談だが、新しい駐車禁止のマークを考えてみたが、これが結構難しい。車に対して斜線を入れたマークでは、車自体を禁止しているマークになってしまう。静止した絵で、停車した車を表現するのは困難である。ちなみに、アメリカの駐車禁止のマークは「P」に斜線である。
 駐車禁止のマークは、何が禁止なのかはそれだけでは読み取りきれない「抽象性」が表出している。街の景色にぽっかりと浮かぶ抽象性が、目に焼き付くのである。
 通常、街の撮影をしようとした場合、立ち位置やフレーミングを変えながら、何をどう撮ろうか考える。必ずと言っていいほど、写真に主観的要素が加わってくる。主観を一切排除してデタラメに撮ろうと思っても、なかなかできることではない(少なくとも、自分にはできない。「デタラメに撮ろう」という主観が入ってくることだろう)。世間に溢れかえっている街の写真は、作者が選択した街の風景なのである。

 定型撮影による標識の撮影で背景に写り込んでくる街。一枚の写真における標識の位置やサイズに厳しいルールが課せられているので、背景の街に対して作者ができる選択とは、人や車など、動くものを入れるかどうか、くらいである。つまり、街の部分には、ほとんど主観的要素を入れる隙間がない。それはまるで標識の部分を串刺しにして、勝手に街がぶら下がって来るようなもの。そうして写り込んだ街は、ただただ街なのである。

写真相対論「街中のことで」より